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Satoru Suzuki

道徳はフラクタルだ


こんばんは!情熱男です。

年齢なんかで若さは測れないなーと思う今日この頃です。

フラクタル


道徳はフラクタルだ。
フラクタルっていうのは、数学者のブノワ・マンデルブロが定義した幾何学の概念だが、
簡単にいえば、全体と部分が自己相似の関係になっている構造を意味する。
葉っぱを落とした樹木を、遠くから眺めると、幹から枝が分かれて生えている。
近づいて、そのうちの一本の枝を観察すると、その枝からも同じように小枝が分かれて生えている。
その小枝も、さらに細い小枝に分かれていて・・・という具合に、部分と全体が同じ形をしている図形を、フラクタルという。
つまり、道徳もそんな構造ではないかと俺は思うのだ。
人がいて、家族があって、地域社会があって、市だの町だのがあって、県だの府だのがあって、国があって、さらには国際社会がある。
構成単位は、人だったり、家族だったり、地方自治体だったり、国家だったりするわけだが、その形はフラクタルで相似形なわけだ。
形が相似なんだから、理屈からいえば、道徳だって国や市にも同じように適用されなくてはいけない。
国と国間の大きい道徳も、小学校の教室の中での小さな道徳も相似形になってなきゃいけない。
ものすごく単純な話で、子供に友だちと仲良くしましょうっていうのであれば、国と国だって仲良くしなくてはいけない。
子どもに「いじめはいけない」と教育するなら、国だってよその国をいじめてはいけない。武器を持って喧嘩するなんて、もってのほかだ。

(新しい道徳 北野武 より抜粋)




道徳を云々するなら、ますば自分が道徳を守らなくてはいけない。とても当たり前の話だ。
道徳はフラクタルで、子供は泥棒をしてはいけないと話すのと一緒なんだ。でも不思議と大人の世界は戦争なんてことが起こる。

道徳を一生懸命こどもに教えるのに、武器をもって喧嘩しちゃおうって話になる。
なんて不思議な話だろう。


聖人みたいな話ではないけど、大人が見本とならなければ子供は正しく育たないと思う。
どんなに激しい気性だろうと、そういうことはどうでもよくって、大事な芯がしっかりしている大人が増えてほしい。
それこそ本当の国力なんだろうと思う。

隣の人に無関心な時代だと思う。でもソーシャルメディアでは全く関係ない人が気になっている。それこそ異常な世界だ。
身近な人を育てあえる環境が、人間的だし大事なことだと思う。その小さな社会がフラクタルに大きな国をつくる。
難しいことはわからなくていい。身近な社会がおかしなことになっていれば、それは国を映す鏡なんだろう。


「人がいて、家族があって、地域社会があって、市だの町だのがあって、県だの府だのがあって、国があって、さらには国際社会がある。
構成単位は、人だったり、家族だったり、地方自治体だったり、国家だったりするわけだが、その形はフラクタルで相似形なわけだ。」


ぼくの傍にあるコミュニティを大事にしていこうと思う。そんなことを思わせる北野武さんの素晴らしい言葉でした。

あなたは今いるコミュニティをどんな風に素晴らしい環境にしていきますか?


道徳はフラクタルだ、、、情熱!!!